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原郷への旅

Deep into HeartLand

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石宝殿
塩釜、逆鉾とならぶ「三奇」のひとつが姫路の近くにある石宝殿(いしのほうでん)。

同じ名前の地名は六甲山の宝塚近くにもある。麓にある神社のご神体。

播磨の英雄神、伊和大神の「いわ」は石屋(いわや)の「いわ」とも重なる。風土記によると大神は朝鮮半島からやってきた渡来神との激闘を制して、自らが立ち上げた国の防衛に成功し、播磨一宮に祭られる。伊和坐大名持之御魂

「大名持」は石宝殿(石乃寶殿)にある生石(おおしこ)神社の由緒書にある大穴牟遅(おおあなむち)と同神であろう

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   生石神社 由緒書   日本三奇石乃寶殿 鎮の石室(いわや)

神代の昔大穴牟遅(おおあなむち)少毘古那(すくなひこな) の二神が天津神の命を受け国土経営のため出雲の国より此の地に座し給ひし時 二神相謀り国土を鎮めるに相應しい石の宮殿を造営せんとして一夜の内に工事を進めらるるも、工事半ばなる時阿賀の神一行の反乱を受け、そのため二神は山を下り数多神々を集め「当時の神話 現在の米田町神爪」この賊神を鎮圧して平常に還ったのであるが、夜明けとなり此の宮殿を正面に起こすことが出来なかったのである、時に二神宣はく、たとえ此の社が未完成なりとも二神の霊はこの石に籠もり永劫に国土を鎮めんと言明せられたのである以来此の宮殿を石乃寶殿、鎮の石室と稱して居る所以である。

   鎮の石室(通称、浮石) の容姿と工程

鎮の石室は三方岩壁に囲まれた巨岩の殿営で池中に浮く東西に横たわりたる姿である その容積は三間半(約七米)四方で棟丈は二丈六尺(約六米)である。この工事に依って生じた屑石の量たるや又莫大であるが、この屑石を人や動物に踏ませじと一里北に在る霊峰高御位山の山頂に整然と捨て置かれて居る。池中の水は霊水にして如何なる旱魃に於いても渇することなく海水の満旱を表はし又万病に卓効有るものと云われて居る。

   生石 (おおしこ) 神社の創建

人皇十代崇神天皇の御代日本全土に悪疫が流行して人民死滅の境にある時、ある夜二神が天皇の夢枕に現れ「吾が霊を斎き祭らば天下は泰平なるべし」とのお告げがあり依って此所に生石神社が創建せられたのである。以来忽ち悪疫も終息して天下泰平となる。

   神社の分霊

人皇十三代成務天皇十一年「約一九〇〇年前」に當生石神社の分霊として羽後国飼海郡平田村生石「現在山形県酒田市大字生石」より勤請せられ現在古色豊かに生石神社として栄えて居り當社の分霊として親善の交流を続けて居るのである。

   神社の梵鐘

天正七年(西暦一五七九年)羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が三木城攻略の折神吉城も落さんとして當神社を陣所に貨与せよとの申出に対し、兄の城を攻める「時の宮司は神吉城主の弟」陣所には貸さぬと拒否したるため、秀吉の怒に触れて焼き撃に逢い、そのため神社伝来の凡てが一瞬にして灰燼に帰したのである。その時焼け残った梵鐘は持去られ、後日関ヶ原の戦に西軍石田三成の勇将大谷刑部吉隆が陣鐘として使用したるも、敗戦の結果徳川家康が戦利品として美濃国赤坂の安楽寺に寄附し、敵将ながらも実に惜しむべき武将であると慨嘆し、朝夕此の鐘を撞いて未来永劫に吉隆及び戦歿者霊を慰さめよとの事であったと云われて居る。現に大垣市の指定文化財として保存せられ鐘の表面には當生石神社名が刻銘さる。

(日本三奇とは當社・鎮の石室、東北地方塩釜神社の塩釜及び九州地方霧島神社の天乃逆鉾を謂う。)

   万葉集巻三

大汝少彦名乃将座志都乃石室者幾代将経(大なむち少彦名のいましけむ しづのいわやは幾代へぬらむ)

世をへても朽ぬいはほのなかりせばかみ代のあとをいかてしらまし

うこきなき御代のしるしと神さひて幾としか経しこれのいはむろ

うこきなき御代よろずよの宝とて石のみやゐはつくりけらしも

みるからに尊とかりけりはりまなる志都のいわやは神のふるさと
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