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4世紀、古墳時代の初期、伊賀には豪勢な建物のそばに日本庭園の原型ともいわれる庭が築かれていた(城之越遺跡) 文化度の高い当時の有力者がいたようである。伊賀の栄光の時代である。御墓山古墳、石山古墳、馬塚古墳など全長100mを超す大型前方後円墳が西暦300年代から築かれている。時期的にきわめて早く古墳時代の文化が栄えた。古墳時代が終わり、飛鳥時代になっても小規模ながら水準の高い寺院があったことが知られる(史跡 夏見廃寺)
最古の戦いの記録は、5世紀、古墳時代中期、大和朝廷軍と伊勢の朝日郎が2日にわたって伊賀青墓で激戦を交えたというもの(日本書記)。
7世紀、646年の詔では、凡畿内東自名墾横河以來(およそ うちつくに ひがし 名張の横河 より このかた)とあって、伊賀の西部は地方ではなく、都の領域(畿)に入っていた。 畿(みやこ)と鄙(ひな)がいりまじる土地としての記憶は、後の伊賀の人たちにも引き継がれる。
古代最大の国内戦争 壬申の乱は伊賀采女の子供が天皇になったことが引き金になる。伊賀の鳳凰寺は天皇の母 伊賀采女宅子が故郷に帰り、我が子 弘文天皇の菩提を弔うため建立したと伝わる。8世紀の奈良時代、孝謙女帝が東大寺の伊賀進出の拠点となる板蠅杣(いたばえのそま)を東大寺に与えた。杣は巨大な荘園となり、ここに悪党たちが跳梁する素地ができた。
古墳時代以降の伊賀の歴史は紛争と混迷の連続。東大寺という巨大で高圧的な荘園領主がいて、伊賀の住民たちとは何かと対立してきた。南朝を支持して足利と対立し、信長とも対立を深めた伊賀の反権威主義的な傾向は東大寺との対立でやしなわれたものかもしれない。伊賀の混乱は1278年から90年近くにわたり、東大寺と在地民の間で断続的に続いた戦争を最長とする。
平安時代、1053年から3年間続いた戦いで伊賀の内紛が顕在化する。南伊賀で勢力をのばす東大寺と、それを抑えようとする国側の対立であった。この対立は東大寺の勝利。伊賀には広大な寺領が成立する。
鎌倉時代から南北朝にかけての90年戦争では、この大荘園をめぐって東大寺と現地で荘園を管理していた人々が対立する。 対立前は東大寺側の管理人の地位にあった大江氏は、対立後は東大寺から「悪党」のレッテルを貼られる。東大寺は幕府に頼って悪党を鎮圧しようとする。百地三太夫で有名な百地家は伊賀の悪党代表(張本)大江氏の系統であるといわれる。
1324年、鎌倉幕府は近江守護代 佐々木範綱と御家人 柘植二郎左衛門尉に悪党 大江清高の追討を命ずるが両人とも東大寺に味方することに消極的だった。 柘植家は、この時点ですでに大江氏と擬制的な親族関係を結んでいたようである。 後の戦国時代、映画ではカットされたが小説 「忍びの国」では柘植家は反織田一色になる伊賀の土豪のなかで唯一早くから信長を支持した存在として丹念に描かれている。織豊政権とは徹底して対決した瀬戸内海 村上海賊衆の中で来島家だけが政権との友好路線に転じていったのと似ている。
1327年 幕府は伊賀守護代 平常茂と御家人 服部持法に悪党鎮圧を命じるが、これも失敗。どうやら大江、服部、柘植は表向き争いつつも裏ではつながっていたようだ。
その後、伊賀の土豪たちは、突如、禁裏供御人を称して朝廷と結びつき、御贄所贄司の挙状をえて記録所で東大寺と対決を試みる。この動きは伊賀の土豪たちが南朝を支持し、さらには南朝の求心力を担った北畠家と親しくなる発端となった。後醍醐天皇は笠置山で挙兵するにあたり伊賀の黒田悪党と連携するとともに金剛山を中心に活動する大悪党 楠木氏を倒幕の中心に据えた。この挙兵は失敗し北畠具行が処刑され、天皇は隠岐に流されるが、楠木正成は「金剛山 未だ落ちず」と諸国に伝えられた奮戦を続け、鎌倉幕府は崩壊に向かう。
このとき伊賀はどうしていたかを伝える記録は、あまり目にしたことはない。鎌倉幕府も楠木や赤松のような大悪党との戦闘に手いっぱいで伊賀は後回しになったのか。戦国時代でも大阪の石山本願寺がもう少し踏ん張ってくれたり、甲斐の武田、越後の上杉が強勢を保ってくれていたら信長も伊賀を総攻撃する余裕は無かったかもしれない。
室町幕府が成立すると伊賀・伊勢・志摩は三河国額田郡仁木郷(愛知県岡崎市仁木町)を発祥とする仁木氏が守護となる。伊賀と三河のつながりは、このあたりからもきている。守護 仁木義長のもとで伊賀は小康状態を得るが、仁木氏の勢力減退とともに再び混乱へと落ちていく。
伊賀の有力土豪 下山家は応仁の乱の頃、伊賀にやってきて名張市奈垣に城をかまえる。伊賀に元々いた土豪たちにしてみれば目障りな存在だったかもしれない。小競り合いが勃発するはずである。応仁の乱では伊賀衆は、乱の発端となった暴れん坊 畠山義就(よしひろ)を支持したようである。義就の悪党っぽさに通じるものを感じたのかもしれない。
応仁の乱後、宇治平等院を中心に惣国一揆を形成した南山城に続いて、伊賀でも12家評定衆を中心とした強力な自治体制ができてくる。 淀川水系の木津川をつうじたつながりが感じられる。伊賀は木津川の最上流にあたる。伊賀の自律性は江戸時代に入っても藤堂藩の支藩が成立して、名張や伊賀上野を中心に存続する。
伊賀は、もともと伊勢の一部だったが数郡を割いて一国にした。 伊賀一ノ宮(敢國神社)の主祭神は大彦命。『古事記』では「大毘古命」、埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣銘文にも、それらしき名前が見える。オオヒコは、伝説では大和朝廷成立期の武人で東北地方の会津まで遠征したとされる。第11代垂仁天皇は彼の娘が生んだ孫にあたる。伝説上ではヤマトが本州に勢力を拡大した時期のキーパーソン。
飛鳥時代、吉野で挙兵した後の天武天皇と持統天皇の夫婦が最初にまとまった兵力を得たのは伊賀だった。伊賀越えは家康が有名だが古代最大の内乱 壬申の乱を制するにあたっての最初の一歩だった伊賀越えも、それにまさるとも劣らない。天武天皇は遁甲の術(とんこうのじゅつ)をよくしたといわれる。この術は忍術の源流のひとつといわれる。傑出した女帝だった持統天皇は晩年、電撃的に伊賀から三河まで足をのばす行幸を行っている。壬申の乱で協力してくれた地方豪族をねぎらう旅ともいわれるが、伊賀と三河のつながりを考える上でも興味深い。
敢國神社の北東1.5Km程の所に位置する御墓山古墳は社伝によると大彦命の御陵。このあたりは阿倍枝族の阿閉臣(阿敢臣)分布地であり、敢國の「あえ」と通じている。神社には少彦名(スクナイコナ)と金山比咩(カナヤマヒメ)も後には祭神として祭られるようになる。薬草や金属精錬に通じた渡来系の人々の祭神かと思われる。甲賀三郎を合祀していた時代もあって、伊賀と甲賀の関係を深さを示す。
伊賀服部、甲賀望月と呼ばれるように中世の伊賀は服部氏の勢力が優越する。千賀地の家名を持つ人々も氏名(うじな)は服部。 服部氏は源平藤橘のなかでは橘に属するとともに秦氏の後裔との説も消えない。
橘氏は奈良時代直前の女官 県犬養三千代が始祖であるが、服部氏の属する橘氏は彼女の子孫ではなく古代瀬戸内水軍を率いた越智氏の系統である。同じ系統に楠木正成を出した楠木氏も含まれるかもしれないが、服部氏、楠木氏ともに海の民のイメージはない。
服部のなかで代々 服部半蔵を襲名した千賀地家は、家康の祖父に数百名の伊賀者を率いて仕え、家康にも仕えて江戸城半蔵門に名前を残した。
江戸時代に代々、伊賀上野の城主をつとめた藤堂采女家も服部の系統に属すといわれる。
最古の戦いの記録は、5世紀、古墳時代中期、大和朝廷軍と伊勢の朝日郎が2日にわたって伊賀青墓で激戦を交えたというもの(日本書記)。
7世紀、646年の詔では、凡畿内東自名墾横河以來(およそ うちつくに ひがし 名張の横河 より このかた)とあって、伊賀の西部は地方ではなく、都の領域(畿)に入っていた。 畿(みやこ)と鄙(ひな)がいりまじる土地としての記憶は、後の伊賀の人たちにも引き継がれる。
古代最大の国内戦争 壬申の乱は伊賀采女の子供が天皇になったことが引き金になる。伊賀の鳳凰寺は天皇の母 伊賀采女宅子が故郷に帰り、我が子 弘文天皇の菩提を弔うため建立したと伝わる。8世紀の奈良時代、孝謙女帝が東大寺の伊賀進出の拠点となる板蠅杣(いたばえのそま)を東大寺に与えた。杣は巨大な荘園となり、ここに悪党たちが跳梁する素地ができた。
古墳時代以降の伊賀の歴史は紛争と混迷の連続。東大寺という巨大で高圧的な荘園領主がいて、伊賀の住民たちとは何かと対立してきた。南朝を支持して足利と対立し、信長とも対立を深めた伊賀の反権威主義的な傾向は東大寺との対立でやしなわれたものかもしれない。伊賀の混乱は1278年から90年近くにわたり、東大寺と在地民の間で断続的に続いた戦争を最長とする。
平安時代、1053年から3年間続いた戦いで伊賀の内紛が顕在化する。南伊賀で勢力をのばす東大寺と、それを抑えようとする国側の対立であった。この対立は東大寺の勝利。伊賀には広大な寺領が成立する。
鎌倉時代から南北朝にかけての90年戦争では、この大荘園をめぐって東大寺と現地で荘園を管理していた人々が対立する。 対立前は東大寺側の管理人の地位にあった大江氏は、対立後は東大寺から「悪党」のレッテルを貼られる。東大寺は幕府に頼って悪党を鎮圧しようとする。百地三太夫で有名な百地家は伊賀の悪党代表(張本)大江氏の系統であるといわれる。
1324年、鎌倉幕府は近江守護代 佐々木範綱と御家人 柘植二郎左衛門尉に悪党 大江清高の追討を命ずるが両人とも東大寺に味方することに消極的だった。 柘植家は、この時点ですでに大江氏と擬制的な親族関係を結んでいたようである。 後の戦国時代、映画ではカットされたが小説 「忍びの国」では柘植家は反織田一色になる伊賀の土豪のなかで唯一早くから信長を支持した存在として丹念に描かれている。織豊政権とは徹底して対決した瀬戸内海 村上海賊衆の中で来島家だけが政権との友好路線に転じていったのと似ている。
1327年 幕府は伊賀守護代 平常茂と御家人 服部持法に悪党鎮圧を命じるが、これも失敗。どうやら大江、服部、柘植は表向き争いつつも裏ではつながっていたようだ。
その後、伊賀の土豪たちは、突如、禁裏供御人を称して朝廷と結びつき、御贄所贄司の挙状をえて記録所で東大寺と対決を試みる。この動きは伊賀の土豪たちが南朝を支持し、さらには南朝の求心力を担った北畠家と親しくなる発端となった。後醍醐天皇は笠置山で挙兵するにあたり伊賀の黒田悪党と連携するとともに金剛山を中心に活動する大悪党 楠木氏を倒幕の中心に据えた。この挙兵は失敗し北畠具行が処刑され、天皇は隠岐に流されるが、楠木正成は「金剛山 未だ落ちず」と諸国に伝えられた奮戦を続け、鎌倉幕府は崩壊に向かう。
このとき伊賀はどうしていたかを伝える記録は、あまり目にしたことはない。鎌倉幕府も楠木や赤松のような大悪党との戦闘に手いっぱいで伊賀は後回しになったのか。戦国時代でも大阪の石山本願寺がもう少し踏ん張ってくれたり、甲斐の武田、越後の上杉が強勢を保ってくれていたら信長も伊賀を総攻撃する余裕は無かったかもしれない。
室町幕府が成立すると伊賀・伊勢・志摩は三河国額田郡仁木郷(愛知県岡崎市仁木町)を発祥とする仁木氏が守護となる。伊賀と三河のつながりは、このあたりからもきている。守護 仁木義長のもとで伊賀は小康状態を得るが、仁木氏の勢力減退とともに再び混乱へと落ちていく。
伊賀の有力土豪 下山家は応仁の乱の頃、伊賀にやってきて名張市奈垣に城をかまえる。伊賀に元々いた土豪たちにしてみれば目障りな存在だったかもしれない。小競り合いが勃発するはずである。応仁の乱では伊賀衆は、乱の発端となった暴れん坊 畠山義就(よしひろ)を支持したようである。義就の悪党っぽさに通じるものを感じたのかもしれない。
応仁の乱後、宇治平等院を中心に惣国一揆を形成した南山城に続いて、伊賀でも12家評定衆を中心とした強力な自治体制ができてくる。 淀川水系の木津川をつうじたつながりが感じられる。伊賀は木津川の最上流にあたる。伊賀の自律性は江戸時代に入っても藤堂藩の支藩が成立して、名張や伊賀上野を中心に存続する。
伊賀は、もともと伊勢の一部だったが数郡を割いて一国にした。 伊賀一ノ宮(敢國神社)の主祭神は大彦命。『古事記』では「大毘古命」、埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣銘文にも、それらしき名前が見える。オオヒコは、伝説では大和朝廷成立期の武人で東北地方の会津まで遠征したとされる。第11代垂仁天皇は彼の娘が生んだ孫にあたる。伝説上ではヤマトが本州に勢力を拡大した時期のキーパーソン。
飛鳥時代、吉野で挙兵した後の天武天皇と持統天皇の夫婦が最初にまとまった兵力を得たのは伊賀だった。伊賀越えは家康が有名だが古代最大の内乱 壬申の乱を制するにあたっての最初の一歩だった伊賀越えも、それにまさるとも劣らない。天武天皇は遁甲の術(とんこうのじゅつ)をよくしたといわれる。この術は忍術の源流のひとつといわれる。傑出した女帝だった持統天皇は晩年、電撃的に伊賀から三河まで足をのばす行幸を行っている。壬申の乱で協力してくれた地方豪族をねぎらう旅ともいわれるが、伊賀と三河のつながりを考える上でも興味深い。
敢國神社の北東1.5Km程の所に位置する御墓山古墳は社伝によると大彦命の御陵。このあたりは阿倍枝族の阿閉臣(阿敢臣)分布地であり、敢國の「あえ」と通じている。神社には少彦名(スクナイコナ)と金山比咩(カナヤマヒメ)も後には祭神として祭られるようになる。薬草や金属精錬に通じた渡来系の人々の祭神かと思われる。甲賀三郎を合祀していた時代もあって、伊賀と甲賀の関係を深さを示す。
伊賀服部、甲賀望月と呼ばれるように中世の伊賀は服部氏の勢力が優越する。千賀地の家名を持つ人々も氏名(うじな)は服部。 服部氏は源平藤橘のなかでは橘に属するとともに秦氏の後裔との説も消えない。
橘氏は奈良時代直前の女官 県犬養三千代が始祖であるが、服部氏の属する橘氏は彼女の子孫ではなく古代瀬戸内水軍を率いた越智氏の系統である。同じ系統に楠木正成を出した楠木氏も含まれるかもしれないが、服部氏、楠木氏ともに海の民のイメージはない。
服部のなかで代々 服部半蔵を襲名した千賀地家は、家康の祖父に数百名の伊賀者を率いて仕え、家康にも仕えて江戸城半蔵門に名前を残した。
江戸時代に代々、伊賀上野の城主をつとめた藤堂采女家も服部の系統に属すといわれる。
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